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​気まぐれ日記【番外編】

下和田左馬神社

下和田左馬神社のこんなお話を知っていますか?

左馬神社はいつ創られたの?

下和田左馬神社は新編相模風土記稿に「寛文10年(1670年)の棟札有り」と記載の通り、古くから村の鎮守として祀られて大切に守られてきました。

昔は鯖大明神社と言われ、いつしか左馬神社と呼ばれるようになる。

下和田左馬神社の主祭神は源義朝(左馬頭の官職に就いていたから?)です。

疱瘡(天然痘)や麻疹(はしか)、百日咳などの疫病が流行ると近隣のサバ神社を1日で7つ巡って息災を祈る「七サバ参り」の風習があった。

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下和田左馬神社は新編相模風土記稿に「寛文10年(1670年)の棟札有り」と記載の通り、古くから村の鎮守として祀られて大切に守られてきました。

昔は鯖大明神社と言われ、いつしか左馬神社と呼ばれるようになる。

下和田左馬神社の主祭神は源義朝(左馬頭の官職に就いていたから?)です。

疱瘡(天然痘)や麻疹(はしか)、百日咳などの疫病が流行ると近隣のサバ神社を1日で7つ巡って息災を祈る「七サバ参り」の風習があった。

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  • 下和田村(36軒の小さな農村)の地頭(領主)であった旗本・辻忠兵衛(つじちゅうべい)によって勧請(かんじょう/神を招いて建てること)されました。

  • 歴史が証明する「棟札」に寛文十年庚申(こうしん)十一月二十八日と刻まれ、後世の地理書「新編相模風土記稿」に記録が残されている。

  • 疫病から子供たちを守る願いと暴れ川、「境川」の洪水を鎮める水神への祈りもあり、当時は魚の「鯖」には薬効があると信じられていたので「鯖大明神社」になった?

「鳥 居」

文政四年(1821年)辛己(かのとみ)十月吉辰と頭取・大津善兵衛?の文字が刻まれた鳥居があります。

文政年間は盛んに神社の整備が行われた時期だそうです。村の平穏や疫病退散を祈願して村人総出で鳥居を奉納したのでしょうね。

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「常 夜 灯」

境内に寛政元年(1789年)己酉(つちのとり)九月吉辰(吉日)に奉納された当時の社号「鯖大明神」と相刕(州)高座郡下和田村氏子中の文字が刻まれた貴重な常夜灯があます。

村での暮らしに欠かせない精神的支柱が村の鎮守の「鯖明神社(左馬神社)」だったのでしょう。

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下和田村の領主、直参旗本辻家のお話

辻家は将軍直属の家臣(直参)で石高は約500石です。将軍に直札お目見(拝謁)できる格式の高い家柄の「旗本」でした。江戸の屋敷に住み、自分の領地(知行地)として下和田村を支配した。下和田村は一族の主要な領地(本領地)と位置づけられ、年貢米管理を行う拠点として「御蔵屋敷」が置かれた。上和田村や福田村の一部エリアと近隣の村(長後周辺にあたる地域)に分散して約500石を割り当てられていた。御蔵屋敷は信法寺から左馬神社にかけての一帯あたりに境川と街道を利用しやすい台地に配置され、集めた年貢米を江戸に送る物流の拠点でした。江戸時代中後期から幕末にかけては現在の東京都文京区小石川2丁目(当時の地名で「小石川表町/小石川伝通院前」付近にあり、知行石高770石の小普請組(こぶしんぐみ)の旗本としてひとつの敷地に邸宅と家臣の長屋がコンパクトにまとまった拝領屋敷(一か所)を構えていた。

旗本辻家は徳川秀忠に仕え「上田七本槍」の一人に数えられた辻久吉(つじひさよし)を初代(家祖)とする。慶長6年(1601年)に下和田村などの知行地を与えられて以来、初代の辻久吉から数えて幕末までおよそ9代~10代前後にわたり家系が続いた。江戸幕府が公式に編纂した家系集「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうかふ)」(1790年~1812年完成)の段階で7代(または8代)まで記録されており、その後さらに幕末(1860年)の明治維新まで家系が続いた。

 

初代   辻久吉(つじひさよし)

元々は豊臣秀吉の家臣・木村清久の陪臣でしたが、天正18年(1590年)に徳川家康に仕えます。慶長5年(1600年)の上田合戦(第二次上田合戦)の際、秀忠の軍において武功を挙げ、「上田七本槍」の筆頭と称され、慶長6年(1601年)に相模国高座郡下和田村などの知行地を拝領した。

第2代   辻忠兵衛(つじちゅうべい)

寛永10年(1633年)などの記録に「下和田村182余石が辻忠兵衛に宛行われている」とあり、下和田村の本領を安堵されている。寛文10年(1670年)には領民や自身の信仰の為、地頭(領主)として下和田に「左馬神社」を勧請(かんじょう)・造立した。

下和田村はどんな村だった?

下和田村の村石高は元禄郷帳・天保郷帳・旧高旧領の記録によれば、約182石です。新編相模風土記稿によれば、家数は36軒、東西約7町(約763m)、南北12町(約1,308m)の規模の村でした。

幕府領(蔵入地)から旗本辻家の知行地になり、江戸中期には村の主要な寺院として真福寺があり、左馬神社の別当寺として村の信仰の中心として存在した。

真福寺の山号は「鯖宮山真福寺(さばみやさんしんぷくじ)」で平安時代に空海(弘法大師)が開いた真言宗のうち、高野山を中心に伝承されてきた古い教義の一派で古義真言宗(こぎしんごんしゅう)のお寺です。

ご本尊は「正観音黄金仏」です。ご本尊はかつて霊場巡り高座郡三十三観音霊場の第31番札所に指定されていた。建立時期は中世~江戸初期17世紀前半以前とされ、正確な開山は不明ですが江戸時代初期には存在は確実とされている。江戸中期には下和田村の主要な寺院として左馬神社の別当寺を務めていた。

明治初期に政府の「神仏分離令」及び「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の流れの中で廃寺になった。ご本尊「正観音黄金仏」は廃寺に伴い藤沢市辻堂元町の「宝珠寺」に移された。

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真福寺の痕跡を残す供養塔

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供養塔に刻まれた信仰の証

神社に奉納された古い鳥居や常夜灯をインターネットやAIを活用していろいろなことを知ることが出来ました。

旗本 辻久吉が徳川家康の関東入り後、下和田村(知行地)を宛行われ、二代目 辻忠兵衛が徳川秀忠より、下和田村石高182石と知行地(領土)を安堵され、領民・領地の安泰と自身の信仰の為、左馬神社を勧請(かんじょう)した。

左馬神社誕生の物語を想像して下和田のルーツに少し触れた気がいたします。

2026年8月吉日

下和田左馬神社氏子 石井孝幸

「供 養 塔」 

参道の入り口に供養塔があり、供養塔の側面に西国・坂東・秩父・百番・供養・講中と刻まれ、劣化してよく読み取れませんが講中名と個人の名前が刻まれています。百観音のすべての霊場を巡礼した記念に供養塔を建てたのを示しているのではないか、年代を読み取れる文字が見当たらないのが残念です。

※木々に囲まれ、いかにも村の鎮守の神社と云う雰囲気がしてお参りすることで心が穏やかになるような気がしています。

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